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古九谷窯跡

謎多い「古九谷のロマン」彷彿

加賀エリア
加賀市山中温泉
古窯跡全景

古窯跡全景

後藤才次郎碑

後藤才次郎碑

古窯跡碑

古窯跡碑

山深く雪深い地から数々の名品

石川県の代表的な伝統産業である九谷焼の歴史は、今からおよそ350年前、山深い九谷村(現在の加賀市山中温泉九谷町)に窯が築かれたことに始まります。大聖寺藩初代藩主の前田利治が、九谷村で鉱山開発中に陶石が発見されたのをきっかけに磁器生産を企画。九谷鉱山の開発に従事して、錬金の役を務めていた後藤才次郎を肥前有田(現在の佐賀県有田)へ陶業技術修得に派遣。才次郎は帰藩後、九谷の地で窯を築き、田村権左右衛門を指導して、明暦元年(1655年)頃に色絵磁器生産を始めた、と伝えられています。しかし、半世紀後には突如その姿を消してしまうなど、古九谷の歴史はいまだにベールに包まれています。
その古九谷窯跡は、山中温泉街から大聖寺川沿いに約13km遡ったところにあります。昭和45年からの本格的な調査によって、1号窯、2号窯、そして江戸時代後期に作られた吉田屋窯の合わせて3基の窯跡の全貌がほぼ明らかとなり、日本の磁器窯創始期の様相を示す重要な遺構として、国の史跡に指定されました。
昔、登り窯があった斜面は保存のため埋め戻されましたが、「古九谷窯址」と彫られた石碑と、近くの川沿いには後藤才次郎の顕彰碑がたっています。
現地を訪ねると、日本陶磁の代表的作品として海外にまで知られている古九谷が、山深く、雪深いこの地で焼かれたことに感慨を覚える人も少なくありません。大胆な図柄、流麗な筆づかい、深みのある色調。古九谷の絵付師たちが、冬の厳しい自然と闘いながら、数多くの名品を輩出したエネルギーと息遣いが時を経て今に伝わってくるようです。

1号窯
全長34mを超える大規模な連房式登窯で、幅2.6mの12の焼成室が20度の傾斜をもって連なっている。窯の左側が物原(陶片の廃棄場所)で、その上部の平坦な所から大量の優品が出土している。直径50cmを超える白磁大鉢や草花、山水図を描いた皿、碗類、上絵付のある破片などがあり、特に「明暦弐歳(1656)九谷八月六日」と記銘のあるものが出土しており、窯創始の年代を知る重要な資料となっている。窯の終末年代は1670年前後30年である。
2号窯
全長13mの小規模な連房式登窯で、幅1.6mの六つの焼成室が、約20度の傾斜で連なっている。出土品は鉢、皿、碗類のほか、京焼風の茶碗が多数出土しており、終末期には茶陶窯として活動していたと考えられる。窯の終末年代は1710年前後40年となっている。
吉田屋窯
古九谷再興のため、大聖寺の豪商豊田伝右ェ門によって、文政7年(1824年)から2年間だけ操業された。窯はレンガ作りの豪壮な連房式登窯で、一部は現県道により削り取られているが、推定全長26mあり、幅4.8mの4つの焼成室からなっている。出土品は鉢、皿、碗類で、文様のあるものはきわめて少ない。

古九谷窯跡
住所 〒922-0136 加賀市山中温泉九谷町地内
アクセス 山中温泉街から車で約25分。道路は2車線で舗装整備されており、途中「我谷ダム」、「九谷ダム」のふたつのダム湖を眺め、四季折々の自然に触れながらドライブするのも楽しい。