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仏御前物語

清盛の寵愛とて、むなしい夢。救いを求めて仏道へ、ふるさと小松へ。

仏御前像在りし日の仏御前の面影を偲ばせる平安朝作風の乾漆座像。

明日はわが身の祇王の悲しみ。白拍子、仏御前は栄華を捨てて仏門へ。

小松市から鳥越村に至る県道沿いにひっそりと小さな墓がある。原町、仏御前の里。

白拍子(平安末期から鎌倉時代にかけて行われた歌舞。またはこれを歌い舞う遊女。直垂、立烏帽子の男装で歌いながら舞った)仏御前は一七歳にして平清盛の寵愛を受けるが、みずからの栄華にむなしさを知り出家、祇王寺へ。やがてふるさとへ帰り、21歳の短い生涯を終えたという。

穏やかに合掌する姿を写した尊像は、今も往時の美しさのまま。原町では町内の家々が交代で尊像をお預かりし、守り続けてきた。寺社やお堂に安置するのではなく、たとえば江戸時代なら庄屋、のちには信仰篤い家々へと伝わった。そして現在も個人宅の広間に安置されている。朝夕の供養はもとより、全国から仏御前を慕って訪れる人々の案内など、すべては尊像を守る人々の厚情。その信仰心が、なによりも美しい。

仏御前【ほとけごぜん】(1160~1180)

五重塔の塔守の娘として生まれる。幼い時から仏法を信じ、仏と呼ばれる。14歳の春に京に上り、白拍子となる。天性の美貌に加え、舞や歌に秀で、平清盛の目にとまり寵愛を受ける。17歳の秋に出家し、嵯峨野の祇王らの庵を訪れ、ともに仏道に精進。翌年、美濃国を経て帰国の途中、白山麓木滑の里で清盛の子を出産、子は亡くなり、仏御前は短い余生を感謝のうちに過ごしたという。

旧原村に生まれた仏御前は、京都に上って清盛のもとへ。当時、清盛の屋敷には祇王【ぎおう】という白拍子がいたが、清盛は仏御前の美しさ、芸の素晴しさに魅せられ、祇王を追い出してしまう。悲しんだ祇王は妹や母とともに出家、嵯峨野の往生院(現在の祇王寺)へ。清盛のもとで栄華の日々を送るかに思えた仏御前もまた、祇王の姿にみずからの明日を見、栄枯盛衰、むなしさを知る。そして祇王母娘を追って仏の道へと入る。ふるさとへ帰る時にみずからの姿を写した像を形見として残してきたという。その像は仏御前が亡くなって後、祇王寺より原村に贈られた。

実盛の首を確かめた樋口次郎は、ただ一目みて「あなむざんや、斎藤別当で候ひけり」と涙はらはら。実盛の討死【うちじに】から500年後、芭蕉が訪れ「むざんやな」の句を詠む。

仏御前が求めた仏の道は今もなお里人の心へと続く。

「平家物語」に記され、謡曲「仏原」(世阿弥作と伝えられている。「平家物語祇王」を本説とし、旅の僧が仏の原にて仏御前を回向する)の題材にもなった仏御前の一生は短い。「人の世の栄華は夢の夢、楽しみ栄えて何かせむ」と仏教に救いを求め、ふるさとでも仏道に精進したという。

仏御前の里の人々は栄光のなかに人生のむなしさを見た仏御前を慈しみ、ふるさとで過ごした清らかな祈りの日々を語り継ぐ。尊像を預かる家では日々、供花や仏供を整えて大切にお守りする。現在の林さん宅では昭和の初め以来70年。広間を開放し、全国から訪れる人々を迎えている。

仏御前の墓石は人々がなでさすったためだろうか、中央が窪み、すりへっている。病気平癒を願う里人が仏御前の慈悲にすがって祈ったためだという。

実在の人物、それもかつては白拍子として華やかな場にありながら悟りを求めた一生だからこそ、人々は心の拠り所とすることができた。親しみのなかで、仏の道の尊さを感じることができた。

仏御前はいまもなお原町の人々とともにある。800年の時を経てなお、里人を見守っている。

林美江【はやしみえ】仏御前像安置所、小松市原町文化財保存会・千才庵

仏御前信仰とともに800年のあいだ尊像を守る。

林美江【はやしみえ】仏御前像安置所、小松市原町文化財保存会・千才庵仏御前の尊像はお寺やお堂に安置してきたのではなく、800年あまりの間、ずっと一般の家々でお守りしてきました。昭和の始めにうちでお預かりするようになりましたが、それまでは庄屋さんや信仰心の篤い家を転々としてきました。

乾漆像なのでケースに保管したままでは呼吸ができなくて傷んでしまいます。朝にお厨子を開け、夕方には閉め、信仰の対象として大切にお仕えすることが、像を守ることにもなりました。

毎年9月16日の[仏御前まつり]には白拍子の舞を奉納し、町内の方々が集まって縁起を読んでいます。信仰に支えられた仏御前の一生を、この静かな山あいの地で偲んでください。

※仏御前像安置所は個人宅です。見学希望の方は必ず事前にご連絡ください。連絡先/0761-47-1241

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