【明治・大正】世界に響くジャパンクタニ
明治に入ると、九谷焼は貿易品として盛んに海外へ輸出されるようになる。なかでも九谷庄三の作品は海外の博覧会で人気を博し、「ジャパンクタニ」の名を世界にとどろかせた。明治20年代には、九谷焼は日本での輸出陶磁器第1位となるまでにのぼりつめていく。
能美(旧寺井)に生まれ、農業のかたわら陶画を学んだ庄三は、洋絵具を使うことを思い立ち、上絵付けの世界を一新した人物。和絵具では表せなかった中間色を焼き出し、さらに金の焼きつけ法を開発して、ふんだんに金色を使った「彩色金襴」の図柄を描いた。庄三が没した明治16年(1883)には弟子が300人を超えていたといわれるが、九谷焼の生産量を大きく引き上げた庄三の工房が、近代九谷の基礎を築いたことはまちがいない。
彩色金襴手の庄三風が海外で人気を高めていく中で、能美では松本佐平を中心に輸出物の量産化を図り、素地製作と絵付けを分離。絵付けの分業所が6カ所に作られた。
一方、古九谷風の優れた作品を作り続けた陶工として、松屋菊三郎、石田平蔵、川尻七兵衛、初代 田八十吉、松本佐吉らがいた。とりわけ小松の初代徳田八十吉は古九谷の色の再現に生涯をかけた人物。秘伝とされる古九谷の色は現代に受継がれ、三代徳田八十吉の作風「耀彩」へとつながっていく。