【江戸初期】謎めく古窯
九谷焼の歴史はおよそ350年前の明暦年間(1655〜57)に遡る。加賀藩支藩の大聖寺藩初代藩主・前田利治が南加賀の九谷村で磁鉱が発見されたことを知り、金工師だった後藤才次郎に色絵磁器を焼くことを命じたのがはじまりである。以降、廃窯まで約50年間、九谷村から数々の名品が生み出されたといわれる。この時代に焼成されたものは後に「古九谷」と称される。
古九谷のモチーフは花鳥風月、山水、人物がほとんどで、画風については当時全盛を誇った狩野派を中心に、土佐派、さらに大和絵的な装飾画風のものや、中国明末期に刊行された墨刷り木版画風のものなどさまざまである。
九谷焼の絵付けには紺青、紫、黄、緑、赤のいわゆる九谷五彩が用いられ、はみださんばかりの豪放な筆致が特徴。また、青手の技法も行われており、青手古九谷は赤を使わず、黄、緑、紫の三彩か、紺青を加えた四彩で全面を塗りつぶす「塗埋手」で描かれている。
独特の魅力を放ち、藩主利治を満足させた九谷焼だったが、元禄末期(1700)頃、ふっつりと絶えてしまう。廃窯の理由は諸説あるが、事情を語る文献資料が残されておらず、今もって謎とされている。