再興九谷

【江戸後期】古九谷を求めて

廃窯から100年、加賀藩に興った再びの炎

古九谷廃窯から約100年をへた文化4年(1807)、加賀藩は京都から名工・青木木米を招き、金沢の卯辰山山麓に春日山窯を開く。その後、小松で後に加賀藩の支配下に置かれた若杉窯、郡奉行の援助を受けた小野窯、名陶工としてはせた源右衛門による粟生屋源右衛門窯、その源右衛門に師事した松屋菊三郎による蓮代寺窯が、さらに加賀では古九谷窯跡で開窯して後に山代に移った吉田屋窯、吉田屋窯を受継いだ宮本屋窯など、また金沢においても春日山窯の系譜を継ぐ民山窯と、数多くの名窯が開かれていった。

窯ごとにうち立てられた多彩な作風

再興九谷は古九谷の技法を受継ぎながらも、それぞれの窯の指導者によって新しい作風がうち立てられた。青木木米は全面に赤をほどこし、人物を五彩で描く中国風を確立。吉田屋窯は赤を使わず、主文様に地文様を配して上絵具を塗り重ねた重厚さが特徴。さらに、宮本屋窯は赤で綿密に人物を描き、周囲を小紋などで埋め尽くす飯田屋風、永楽窯は全面を赤で下塗りし、その上に金のみで彩色する永楽風と、多彩な画風が生まれた。

なかでも一挙に九谷焼の名を高めたのが、江戸時代末期に現れた九谷庄三の庄三風であった。現在、九谷焼というと派手な庄三風を思い浮かべる人が多いことからもその影響力の大きさがうかがえる。

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